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             「私民」から「市民」へ
         丸山真男と民主主義そして公

 

                              (初出:『自治体学会通信』2007年11月)

                              奈良女子大学名誉教授  
澤井勝

          
 「歳入は伸びない、仕事は複雑化し増える」という21世紀的状況のもと、将来にわたって財政的負荷を増大させずに効率的で有効な行政サービスを確保するためには、「市民・事業者と行政の協働」(ガバナンス)の推進が不可欠だと言われて167年になる。「行政の責任放棄」、「市民や企業への丸投げ」、「公共サービスの質の低下」、「オカミによる民の支配の巧妙化」などの十分に根拠のある批判も根強い。だが、この「協働」にこそこれからの社会と政治を構想する土台があるのも事実だ。例えば宮本太郎北大教授もこれからの新しい公共サービスのあり方として、「行政と民間(非営利)のベストミックス」による公共サービス供給へ、としている(07929日、大阪市政調査会での講演「セーフティーネットを作り直す――脱『格差社会』への公共サービス」)。

 この場合のポイントは「私民から市民への変容」である。そして「公共性を担う職員(行政)への脱皮」である。安倍前首相は憲法改正のために「戦後レジームの清算」を掲げて自滅したが、われわれも違う観点から「戦後レジームの転換」を望む。そのレジームとは、「公共性(公と私とを結びつける政治の本来のかたち)」を担うことが期待される個人を「私化」すること、それが社会の目的となり、さらに補助金や機関委任事務体制など政府政策によって行政依存の「私民」をつくるかたちで形成されたレジームである。(その反面として香山リカがいう「プチ・ナショナリズム」があるともいえる。)この行政や国への依存意識の反面として政治責任追及の重点を国におく(例えば「国は強く指導すべきだ」など)強い傾向は、テレビや新聞、週刊誌などジャーナリズムにも色濃い。また社会党や共産党、総評など戦後の革新運動を推進した側も同罪だという反省が必要だ。

 ハイエクとケインズの研究者でもある間宮陽介京大教授は、「大衆デモクラシー下の個人の私化は、丸山によれば、『自由の私化』、自由を憲法で担保された結果生じた私化である。」と述べる(間宮『丸山真男――日本近代における公と私』ちくま学芸文庫、第4章)。また、「(丸山が)近世から近代、そして現代へと至る日本政治思想史に見たものは、公共性の未成熟、あるいは萌芽的にみられた公共性の解体の歴史だといってよい」(同)、と指摘。この場合の「公共性」は、西欧であれば自治都市、教会、ギルドのような中間的な団体(私的でもあれば公的でもあるという性格を持った)が市民社会の中核として担った。日本はそれを早期に解体して、公共性を独占するオカミと私的利益に閉じこもる庶民に分解したとする。それは新憲法下でも「個人の私化」(カラスの勝手でしょ)としてむしろ深化した。この結果、私たちは毎日、要求ばかり強い「私民」と格闘している。

丸山がいうように、民主主義が制度ではなくそれを実現するための「不断のはたらきかけ」だとすると、現代の私たちが「協働」で実現したいのは、この「私民」を「市民」(公共的に考え行動する)とする終りのない共同作業である。今の多くの公務員もまた「私民」であることに変わりはない。役場を離れても市民的公共性を担う一人としてNPOなどで汗をかく職員を応援したい。自立した市民が住民の5%を超えれば、希少な財源を豊かに使いまわすことを可能にする地域的な社会基盤がつくられるにちがいない。

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