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二宮金次郎・二つの肖像(1)
                堺市生き生き市民大学 SS情報ひろば

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                     生き生き市民大学学長 澤井勝

このコラムは、編集者から「市民大学の以前の開校式で余談として触れた二宮金次郎像についてもう少し紹介してほしい」という依頼から始まったもの。

二宮金次郎(尊徳)については、最近の出版物では、オリンピック誘致に関連して失言した猪瀬直樹東京都知事が2005年に文芸春秋社から出した『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか』(現在は文春文庫)や、童門冬二さんの『二宮尊徳の経営学』20134月、PHP文庫などが読みやすい。私は、大学院の修士論文の資料として、1927(昭和2)年に出版された『二宮尊徳全集』(全36巻)の中に収録されている、小田原藩領の村々の「御水帳」(検地帳)や「金銭出納帳」「宗門人別改帳」などを利用させてもらったのが縁である。

尊徳は徹底した実学者で合理主義者だ。復興計画をつくるために膨大な資料を集め、その地域を歩き、土地の生産力を測定している。最初の村単位の復興作業となった桜町領(栃木県旧芳賀郡二宮町、現真岡市)の場合は、小田原藩主大久保忠真の要請にこたえて桜町領の調査に入ったのが文政41820)年8月。12月に調査を一応終えて小田原に戻り、再建案を提示したのが文政5年の1月である。

 身長180センチ、体重94キログラムの当時としては大男、それが成人した二宮尊徳(金治郎)だ。小田原市尊徳記念館に残された、裃を付け、帯刀して威儀を正した肖像を見ると、太い眉と高い鼻、そして濃い顎髭が目立つ。現在でも全国の公立小学校に残る「薪を担ぎ、本を読みながら歩く少年金次郎像」の印象とは大きな違いがある。

この違いは、1904(明治37)年に国定教科書「尋常小学校修身書」に登場して孝行、勤労、学問、自営という4つの徳目の手本とされた少年金次郎像と、実際に幕末の関東や東北で農家や旗本領、相馬藩の経済復興を成功させた尊徳像との違いだ。

彼は現在の神奈川県小田原市栢山に1787(天明3)年に生まれた。その3年前から浅間山の大噴火と大冷害のため「天明の大飢饉」が続いている。そして5歳のときには小田原領の中央を流れる酒匂川が大氾濫し、父利右エ門は23反あまりの田畑をすべて流されている。父は困窮のなか金次郎14歳の時に没し、母も翌々年に亡くなる。金次郎は弟二人と離れ、伯父のもとに住み込む。この時代を修身教科書と小学唱歌「柴刈り縄ない草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲良く孝行尽くす、手本は二宮金次郎」が一部を切り取ったのである。(つづく、なお現在も金次郎像がある場所などの情報があれば編集者などにお知らせください)。

 

 

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