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大都市改革と市民参加

  「行政都市」から「市民都市」への展開に向けた制度整備

                      (初出:大阪市政調査会「市政研究」05年秋特集)
澤井勝
目次
1、はじめに 政令市の市民参加
2、市民参加の肯定と形骸化
3、包括的地方自治改革とガバナンス
4、地方自治「ガバナンス改革」の三つの軸
5、三つの軸は「協働」を含む4つの軸に
6、新しい「市民参加」の諸段階
7、H市の市民参加の例
8、「協働(ガバナンス)時代の市民参加」の構造
9、市民参加の再構築のための制度形成を
10、おわりに 新しい市民社会と公共性

大都市改革と市民参加

はじめに  

 大阪市の職員厚遇問題から展開している問題(給与条例主義からの逸脱など市政への市民的な不信の高まり)は、福祉国家の形成という流れの中でこれまでの大都市が「行政都市」という色彩を強く持ち、「市民都市」としての性格を失ってきたところにその一因があると別稿(「都市内分権とデモクラシー」『市政研究』148号および「地方財政から考える人件費」『都市問題』059月号)で示唆したところだ。

その際、このような「行政都市の解体」と「市民都市への再編」という大きな課題を実現するための「政策的な」ポイントのひとつは、「市民参加」あるいは「住民参加」を本格的に実現するための施策体系の構築にあることも合わせて触れた。もちろんこのことだけで「市民都市」が構築できるわけではない。そのためには、まず「自立した市民」の「自発的な活動」を通じた、「新しい公共性」の構築という、本来の回路が築かれる必要があるからである。「市民参加」の制度化を通じた再構築は、このような「参加し参画する市民」を大量に創出するための、それはひとつの迂回路である。ここでは、この「市民参加」や「住民参加」について、その政策課題について考えていくこととしたい。

ところで、「市民参加」「住民参加」および後に述べる「執行過程の参加」などの関係について、自治省行政局が1982年に行った「市町村の基本構想等の策定状況調査」の報告書の補論を紹介しつつ次にようにまとめている例がある。 “広義の「市民参加」には「市民参加」「住民参加」「コミュニティ参加」の3種類があるものとし、「市民参加」とは、市民自治の根源的主体である市民一般が市町村の政治行政そのものに能動的に参加すること、「住民参加」とは、特定事業に関して利害関係を持つ特定地域の住民が、その事業の実施過程に参加すること、「コミュニティ参加」とは、市町村より狭域のコミュニティが一種の下層自治単位として認められ、コミュニティの住民がコミュティ施設の建設・運営などの地域自治に参加することと定義づけている。しかし、当時の計画策定における参加を「市民参加」と呼ぶのは理想を見つめたものであり、「住民参加」と呼ぶほうが相応しい事例のほうがはるかに多かったものと思われる。”(森村道美『マスタープランと地区環境整備』学芸出版社、1998183頁)。

ここでは、とりあえず「市民参加」と「住民参加」を以上のように考えることにしておくが、厳密に区別すると煩雑になることから、おおむね広義の「市民参加」として記述しておくこととする。

まず参考までに2005920日時点で、13政令指定都市のホームページのトップページから、キーワード検索をした結果は次ぎのとおりである。

 

1表 キーワード「市民参加」と「住民参加」のヒット数(件)

ワード

札幌

仙台

千葉

さいたま

川崎

横浜

名古屋

市民参加

258

――

13

24

259

2989

100

住民参加

956

96

――

6

36

924

100

 

ワード

京都

大阪

神戸

広島

北九州

福岡

 

市民参加

2631

173

28100

216

147

47

 

住民参加

329

96

9490

64

48

13

 

 

 この結果から直接に各都市の「市民参加」や「住民参加」の進展度が把握できるわけではない。各都市の「市民参加」と「住民参加」というキーワードのヒット数の違いは、検索方法の不適切さ、それぞれが利用している検索エンジンの機能やホームページへの文書登載の構造、登載文書量などにもよると思われるからである。しかし、一応ここではこの数字をひとつの目安として各都市を見てみると、ヒット数が多いグループとしては、飛びぬけて高い神戸市を別格として、横浜市、京都市、札幌市があげられる。ついでかなり差が開いて中位に川崎市、大阪市、広島市、北九州市、名古屋市などとなり、仙台市、千葉市、さいたま市、福岡市などが低位にある。川崎市や仙台市、福岡市の位置には、ヒット数が予想より少ないという意味で少し意外性がある。

 このような状況の持つ意味をどう読むかは次ぎの課題だ。たとえば「市民参加」という言葉でヒットした文章は、大阪市の場合は、各種審議会での議事録の発言や、広報など施策の市民向けのお知らせというものが多いという印象であるのに対して、京都市の場合は、「市民参加推進条例」など「参加の仕組み」を組み立てる制度的な規定が多いという感触である。つまり、大阪市の場合は、議論をしてはいるがそれを政策として展開している感じがしないために、下手をするとリップサービスといわれそうな文書が目に付き、京都市の場合は「市民参加」を制度化する努力を読み取ることができそうな文書が目に付く。そういう違いもある。

 

市民参加の肯定と形骸化

 ここで二つの事情を紹介したい。まず20008月に行われた47都道府県(回答数は46)の行政改革担当課長へのアンケート調査結果である(村松岐夫、稲継裕昭編著『包括的地方自治ガバナンス改革』東洋経済新報社20033月、の松本忠などの第二章「地方分権改革/従来型改革/NPM改革/住民参加経営改革」による)。

 47都道府県を第三次産業の比率が高いほうからA、B、Cの三つに分類する。Aが大都市圏でBが中間的、Dは農村部的傾向が強いということになる。

 

第2表 今後ますます住民が行政に参加すべきだとおもわれますか?

府県

大いに思う

ある程度思う

余り思わない

全く思わない

その他

93.3%

6.7

0

0

0

15

43.8

50

0

0

6.3

16

73.3

20

0

0

6.7

15

                                               (前掲書20頁)

 

第3表 住民参加に際して、住民の自覚と意識の変化が必要だと思いますか? 

府県

大いに思う

ある程度思う

余り思わない

全く思わない

その他

66.7%

33.3

0

0

0

15

56.3

43.8

0

0

0

16

80

13.3

0

0

6.7

15

                                                          (同前)

 ここに見られる都道府県の行政改革担当者の意見は、全てのグループで住民参加に肯定的だということである。第二表では大都市部の都道府県ほど積極的であることは予想通りであるが、農村的地域でも積極的なことがわかる。中間的な地域は、「危機感」が薄いためか、積極性には欠ける結果だといえよう。特に対象が行政改革担当者であることを考慮にいれれば、問題となる低さといえる。

一方で住民の意識変化を求めるという点では、いずれも強い必要性を感じていることがわかる。その内容は区々だと思われるが、行政側からの目線としは了解できるところだろう。だが、問題は意識の変化の必要性については、行政の側にこそ求められているということが、この調査ではわからないという点である。行政改革を推進する側がこのような行政の側の意識変化の必要性を自覚していない可能性があり、それが「住民参加の形式化」、「形骸化した住民参加」を蔓延させることにもなっているとも考えられる。

 そこでもうひとつの指摘がある。いずれも具体的には、公共施設の建設に関しての「住民参加」についてであるが、「住民参加によって建設される公共施設の種類や規模、そして参加の段階や幅が確実に広がりを見せていることは事実である。しかし、一部の事例を除き、多くのケースでは、当事者による結果の評価は必ずしも高くはないようである。行政職員は、『庁内の制度が全く変わらないなかで、住民参加と言われても、カネ、ヒト、ジカン、ギジュツすべてない』『住民は勝手なことばかり言っている』と評価している。また、『住民のガス抜きやアリバイづくりのためにやっている』と住民が評価するケースも多い。『もう二度と住民参加はやりたくない』という職員や住民が増えてしまうことは、きわめて残念なことである。」(大森彌等著『自立と協働によるまちづくり読本』ぎょうせい20043月所収、卯月盛夫「住民参画で職員・住民を鍛える」198頁)

 また卯月はこうもいう。「現在『住民参加』に対しては、次のような指摘がされている。『参加の場に来るのは、ごく一部の人だけ、その人たちだけの話を聞くのはおかしい』『みんなの話を聞いていたら、幕の内弁当みたいになって、スペースもお金もパンクしてしまう』そしてかなり多くの公務員が同じような意見をもっていると思う。つまり、住民の関心は低く、声の大きい住民はエゴのかたまりなので、公務員こそが専門家として大所高所から最適な判断をすることができる、と思っている。しかし、それは間違っている。」

 残念ながら多くの自治体の現場では、指摘の通りこれが現実であろう。このことは、「市民参加」が定着し、「新しい公共」を行政とともに担うものとして「市民」や「住民」が持続的に育つための基礎条件が整えられる必要があることを示唆している。

 その基礎条件とは、まず職員が住民参加、市民参加の現場で異なる意見を戦わせ、合意を形成するという「経験」を蓄積することによって、「ファシリテーター」として自らを形成することである。泳いだことがない人を、いきなり水に飛び込ませても碌なことにはならない。二度と水に入ろうとはしないだろう。泳ぎの訓練はまず水に慣れることから始まる。息継ぎも知らないで泳ぐことはできない。それには適切な訓練、トレーニングがいるし、時間も労力もかかるのである。こういったことがもっと自覚されるべきである。

 

包括的地方自治改革とガバナンス

 ところで、市民参加は地方自治体の統治のあり方の改革の中でどう位置付けられるのであろうか。ここでの切り口は、形骸化している「市民参加」の制度化によるこれまで以上の実質化を、「行政都市」を「市民都市」に再編する、ひとつの技術、アートとして考えている。しかし、現在の地方自治体が直面している改革の流れは、いくつかの異なったストリームから形成されているのも事実である。それを「包括的地方自治ガバナンス改革」ととらえる、前期の村松・稲継らは、特に1990年代以降に世界的に明瞭になってきた政府改革が、日本では1995年の知事選を画期として「包括的改革」の大きな波となってきたという認識を示している(村松、はじめに)。

 その「包括的改革」は「ガバナンス改革」とされているが、この「ガバナンス」についての定義や説明が本書では叙述されていないようだ。編著者らには説明するまでもなく当たり前の概念なのであろうが、おそらく一般の読者に対して本書を少しわかりにくくしているのはおしい。ここで「ガバナンス」について若干の注記を付しておきたい。政府統治を「ガバナンス」という言葉で表現するようになったのはごく新しい。基本的には旧来の集権的な政府であるガバメントから、多元的でネットワーク型の共同統治と市民社会の再構築、すなわちガバナンスへという変化を言う。

中邨章明治大学教授などに依拠してで行った整理を要約すると以下のようだ(「ガバナンスの時代と地域福祉」武川正吾編『地域福祉計画』有斐閣アルマ、057月)。

政府の機能をその政治的機構として反省するトレンドが、1990年ごろからヨーロッパやアメリカ諸国などで強くなってきたとされている(中邨章『自治体主権のシナリオ』(葦書房)、20033月、1820頁)。「ガバメント」という政治的機能に対する批判といっても良い。「ガバメント」とは、英語圏では行政と議会が市民を管理する、支配するという意味合いが強く「政府統治」という言葉に近い。基本的にはこの20世紀的な政府システムに対する不信感が強まってきているのが世界的な傾向であることは指摘のとおりであろう。

 中邨によると、まず20世紀の終わりに近づくころから、主にふたつの要因によってガバメントとしての政府機能が低下してきている。第一には、経済のグローバル化である。経済のグローバル化は特に金融経済のグローバル化が顕著だが、国際企業の経済活動を国境によって管理することが非常に困難になるというかたちで現れている。政府の規制を超えて流通と生産、そして金融取引と資本の移動が激しく行われ、ガバメントはその力を大きく制限されてきている。

第二の要因は、情報技術の発展である。特にインターネットを通した情報のグローバル化によって、政府の情報管理能力は著しく制限されるようになった。同時に情報独占と秘匿による政府の統治機能の維持も、情報公開とその早い流通によって極めて難しい状況になりつつある。

これらの条件もあって、政府機能の限界が明瞭になり、それが「政府への信頼」をゆるがせ、「政府不信」を広げてきているとされている。

この政府不信は、次に見るように「代表民主制」への批判である側面を持つが、同時に行政国家としての福祉国家を運用してきた「官僚制支配」に対する批判であるということもできる。国際比較調査によると、そうした政府不信はヨーロッパ全土に一般化しつつある。『代表民主制は、環境問題や人口の爆発的増加、あるいは貧困や失業、それに移民の急増や国家間の敵対意識の増幅など、今日の社会が直面している数々の難題になす術をしらない。民主制はそれらの困難に対して、解決策をみだせない状況にある。政府や自治体が非力であるということは、国民一般の目に一段と鮮明になった。』(中邨『前掲書』、31頁)。

このようなガバメントに代わって、「ガバナンス」という考え方に関心が集まるようになっているのである。この「ガバナンス」という言葉は、1988年にピッツバーグ大学のガイ・ピータースとジョージタウン大学のコリン・キャンベルとが学術雑誌『ガバナンス』を発刊したことによって注目されるようになった。その後、1990年代の金融危機の際に世界銀行やIMFが対象国の「ガバナンス」の確立を議論するなどして広まっていったとされている(仲埜『同』など)。

現在、「ガバナンス」という言葉が意味するものは、縦系統の支配としての「ガバメント」に対して、例えば中央政府と地方自治体が「対等な関係に立つ」という意味合いを持つ。そして市民と政府も、対等な、水平な関係にあるという意味で使われる。和訳として「協治」とか「共治」などとされる由縁である。もうひとつは、「ガバナンスと市民社会」というように、「市民社会」を再構築する手段として「ガバナンス」を議論する傾向が強い。

このように政府と政府、政府と市民や企業が水平的な関係に立ち、協力する、あるいは協働するということは、「情報公開」をキーとした「参加」ないしもっと積極的に「参画」ということを不可欠なものとする。そしてこの政府の意味の転換を表す「ガバナンス」への改革というかたちで、各国で進行している「行政改革」の特徴としては、次のような規定が比較的よくその特質をあらわしている。

 先ほどのガイ・ピーターズ教授によると、政府への不信を除去するために各国で進行している行政改革の枠組みとして、4つのパターンを挙げている。それは第一に「市場原理モデル」(Market Government,第二には権限の下方への移譲などに力点を置く「参加志向モデル」(Participative Government, そして第三には行政運営にパートタイマー職員を雇用するなど柔軟性をもたせようという「柔構造モデル」(Flexible Government, そして第4に、規制緩和や撤廃を求める「規制緩和モデル」(Deregulated Government,である。(中邨44頁など)

 ただ「ガバナンス」の実現のためには、行政の透明性、行政の執行過程を担う市民活動、その市民的政策評価など、現状を超える行政と市民、事業者の「協働の仕組み」が追求され、「行政の過度の市場化」を「説明責任」の確立によってコントロールする必要がある。

 現在のガバナンス論は、社会的に解決すべき課題、すなわちアジェンダの複雑化とその量的拡大に対する政府の解決能力の機能低下を批判しつつ、その政府機能を補完するとともに、その官僚制の改革をも展望する。そのために市民のエンパワーメントを通じて市民社会を再構築し、行政と市民とが協力しつつ新しい公共空間をつくることを目指すという傾きが強いといえる。

 

地方自治「ガバナンス」改革の三つの軸

 村松らはこの包括的改革には、三つの軸が認められるとしている。すなわち、第一に「地方分権の軸」、第二にはNPMすなわち「ニュ・ーパブリック・マネジメントの軸」、そして第三には「住民自治の軸」としている。これに、「財政のリストラ改革」などが合成されていると捉えている。このような三つの軸をもった「地方自治包括改革」という整理には基本的に賛成である。

 そういう中で見ると、「市民参加」は「住民自治」の軸を構成するものとして、すなわち三つの軸のひとつとしてより明確な位置付けを与えられることになる。

 ただし、この「住民自治の軸」は、「市民参加」を推進する中で、そのよりよい展開を目指す活動に携わる職員の意識改革とともに、「協働」という軸に到達する。「協働」とは「パートナーシップ」ということだが、この「パートナーシップ」は「NPM改革」とは対立する場合があることも示唆されている(「包括的改革」北川)。

 というのは、「行政のNPM型改革」とは、次のような特徴をもっているとされているからである。稲継の整理(同前書133頁)などによれば、それは(1)行政活動への市場メカニズム(PFI、市場化テスト、エイジェンシーなど)の活用、(2)住民をサービスの顧客とみる顧客主義、(3)業績と成果(パフォーマンス)による評価と統制、(4)ヒエラルヒー構造の簡素化、すなわち組織のフラット化、(5)アカウンタビリティ(説明責任)の向上、の5点である。

 したがって、その基礎となっているとされている新制度学派経済学や新経営学などは、いわば経営組織論であるから、リーダーシップの協調なども含めて「組織内の効率的改革」の議論となりがちなことがわかる。つまり、パートナーシップや市民参加のような「民主主義原理」とは異なった原理に立っている。すなわち、「NPM型改革」と「パートナーシップ」ないし「協働」の仕組みへの志向は、ある局面では対立することとなる。

こういった観点から見ると、ブレア労働党の「PPP(private public partnership)」は、サッチャー改革とメージャーの市場化テストやエイジェンシーを修正しつつほぼ継承した上に、パートナーシップ原理を導入し、統合した「第三の道」(アンソニー・ギデンス、1998年、「効率と公正の新たな同盟」という副題をもつ)であるとされる。

 このことは理屈に合っている。ある社会状況を変えようとして人々に働きかける政策や改革の動きが、対立する理念をかかげ、包含することはごく自然なことである。よく指摘されることだが、フランス革命の掲げたスローガンである「自由・平等・博愛」は、決してひとつの原理ではない。特に、「自由」と「平等」はしばしば対立する原理である。それは、人間社会の矛盾した性格を反映した、生きた統合的な原理だということを示している。それぞれの原理の実現を特に強く主張する社会的集団が複数あることは、人間社会の現実である。したがってこれら複数の社会原理、複数の社会的集団の関係を前提にして、それらの間の「討議」を通じて合意を形成し、あるいは統合していくことが「新しい民主主義」あるいは「討議民主主義」であると考えたい。

 

三つの軸は「協働」を含む四つの軸に

 ところで、われわれは村松たちの三つの軸は、実は、「住民自治の軸」から発展した、4つめの原理、すなわち「協働の軸」あるいは「パートナーシップの軸」で補強されるべきではないかと考えている。このことは既に触れたように、住民自治概念自体が、「協働」という「参加」概念の展開によって新しい局面に入っていると思われるからである。

 「住民自治」は、通常は「代表制民主主義」と「直接制民主主義」によって構成されているとされる。そして「市民参加」や「住民参加」はこのような意思決定への直接的なチャネルからの個人としての参加として考えられる場合が多かったように思われる。

しかし、その実状をよく観察すると、政治的な意思決定の方法としてのこのような「代表制」と「直接制」の二つの原理とともに、それによって形成された「政治的な意思の執行」においても、「代表制あるいは代理執行」と「直接制あるいは直接執行」があることに気づく。この「直接執行」あるいは「特定事業の実施過程の参加」の現状は、行政の下請けという性格が強く、「自立した市民」が責任を持って担う「直接執行」はそれほど多くはないと思われるのだが。

行政はこの「代理執行」がいわば肥大化し、自己目的化したものともいえる。もともと村落共同体での道普請や用水の管理のように、いつどの範囲で行うかを村の寄り合い(直接制もあれば代理制もある)で決め、そのための費用を調達して、普請を専門の職人に請け負いに出すというかたちが原型であろう。

「直接執行」とは、市民あるいは住民が、統治団体の「政策の決定」への参加・参画を行い、同時にその「政策執行」の主体になる形態である。道普請で言えば、普請をその決定に参加した村落共同体の成員が、現物の租税や地代負担としての賦役、または無償労働あるいは労働の交換(結い)として担うという形が原型となると考えられる。

これまでの「市民参加」論は、この「執行」への参加については、それほど議論がされず、審議会への参加と意見表明、意思表示などというレベルで捉えられることが多かったと思われる。実際には「コミュニティ型」の組織としての「町内会・自治会」などに、業務委託をし、「直接執行」をさせてきたのが地域の実状であろうが、それは積極的に「市民参加」とは考えられて来なかった。つまり前掲の自治省行政局の整理では、「特定事業の実施過程での参加」としての「住民参加」や「コミュニティ参加」の部分が、「市民参加論」では捨象される傾向があるということである。

ところがこの10年ほどで、この「執行過程」や「実施過程」での「市民参加」の新しい形態としての「協働」というかたちが明確になってきたといえる。すなわち、「協働」とは統治団体の「意思決定」への参加と「直接執行」を担う市民とが、行政と取り結ぶ「新しい関係」であるということもできる。「ボランティア・NPOとの協働」という場合は、具体的な共通のミッションを実現するために、特定の事業を共に担うという意味で使われるから、「直接執行」を「自立した市民組織」が、自らのミッションを通じて「実施過程」を行政との契約関係のもとで担うことになる。このような事情は、「市民参加」概念の拡張をもたらすと考えるべきであろう。

日本における市民参加論の基礎をなす篠原一氏の『市民参加』(岩波書店、1977年)において示された「市民参加の構図」(別図)でも、事業執行は行政内部に位置付けられ、必ずしも執行過程での参加や協働は明確ではない。

(別図)

 

 

つまり「協働時代の市民参加」を明確に「意思決定への参加」と「直接執行」への参加を包含する概念として、再構成することが求められる。

このような「市民参加」概念の拡張は、90年代後半以降の制度改革と、それを活用した住民活動の展開、住民参加の様々な試みによって、事実上の展開が見られてきたものなのである。

 なお、松下圭一氏の言うように(「なぜ、いま、基本条例なのか」公職研『自治基本条例・参加条例の考え方・作り方』2002年参照)流行としての「協働」という言説によって、職員と市民が「ナカヨク」なることを勧めることは、結局オカミ意識の再生産にしかならない、という側面もあることは留意しておくべきポイントである。このような「協働の胡散臭さ」をも合わせて引き受け、そのデメリットをどう克服するかが大きな課題である。そのためにも「ボランティア・NPOとの協働のあり方についての指針」とそれにもとづく「行政と市民組織との協定(コントラクト)」が、市民組織とともに、とりわけ行政を拘束する「共通のルール」として形成され、運用されるべきなのである。

 

新しい市民参加の諸段階

 この変化は、特に1992年の都市計画法の改正と施行によって、「都市計画マスタープラン」が制度化され、それに基づく「まちづくり協議会」などを組織し、運営する中で生まれてきている。医療や福祉の面では、東京都町田市の「ケアセンター成瀬」では地域のドクターのもとに集まった住民が社会福祉法人を設立し、建物のデザインを決定し、ボランティアとともに運営に携わっている。住民が建設から共同経営に携わる例としては、世田谷区の「羽根木プレーパーク」や日野市の里山公園管理、京都市嵐山の公園トイレ建設と管理、同じく京都市の住民参加による「ちびっこ広場」改修、あるいは三島市のグラウンドワークなどがある。

02年以降では社会福祉法に基づく市町村の「地域福祉計画」の策定過程における市民参加のワークショップと市民提案、そのアクションプラン作成過程での小学校区や大字単位での討議と、そこでのNPOなど実施組織の形成などに多彩な参加形態が展開されているようである。

 このような「協働時代の市民参加」の展開はどの水準にまで来ているのであろうか。ドイツの都市内分権の組織である市区委員会をミュンヘンの例で見ると、市民の参加権は次のようになっている。最も基礎的な権利として1、「告知権」がある。これは必要な情報を知らせられる権利を指す。それもできるだけ早期に情報を提供されることが必要である。そして2、「聴聞権」があり、その情報に対して意見を求められる権利のことである。3、として「質疑権」が位置付けられ、行政に質問をして回答を受ける権利がある。すなわち意見を陳述するばかりではなく、双方向のコミュニケーションが成立するよう仕組まれている。4、として「提案権」があり、情報を受け取ったことを出発点として、さらに対案を作成して提案する権利がある。最後に5、として決定権があり、市民が決定の機会に直接係わる権利である。この決定権行使の最も端的な制度は「住民投票」である。(以上は前出:大森彌編『自立と協働による まちづくり読本』ぎょうせい2003年、152頁、200頁など)すなわち、次のような5段階がある。

 1、告知権(情報の告知を受ける権利)

 2、聴聞権(意見を聞かれる権利)

 3、質疑権(質問に対して回答を受ける権利)

 4、提案権(提案、対案を提出する権利)

 5、決定権(最終決定をする権利)

 これらの市民参加の権利は、ドイツの場合は現在も拡大傾向にあるという。わが国の場合は、かなり前進的な制度改正が行われ、実践的には各地で工夫されてきているが、なお市民の決定への参加などは制度的、法的なバリアーがある。また、参加と協働の厳密な制度化が行われていないように見受けられ、担当者の思いによって左右される傾向がある。参加の各段階ごとの手続きが策定され、周知され、それが行政文化にまで定着させることが必要であろう。

 

H市の例

 H市で「市民参加条例」の検討会議が行われているが、そこに提出された資料を見ると、現在の行政の現場が「市民参加」というキーワードで何を考えるかがある程度わかる。調査時期は2004年の7月時点、市の各部局への照会で「現在、なんらかの形で市民参加を行っている部署」という調査である。以下に、事例的に挙げてみよう。

 

1、計画の策定、条例の制定等 

「人権尊重のまちづくり」条例を制定し、審議会を公募委員や当事者委員など市民参加で設定。同じように「地域福祉計画」を市民参加で策定。「一般廃棄物減量及び適正処理基本計画」の策定。「スポーツ振興ビジョン」の策定。「交通バリアフリー基本構想策定」では当事者の委員等の椎議会参加、広くIAなど意見募集。「健康増進計画」でIAによる意見募集。新子ども計画でIAで意見募集。「里山保全計画」策定のためにIAによる意見募集、公聴会など。

 

2、アンケート調査、意識調査など。

ニーズの把握や意見聴取。総合文化施設整備基本計画についてインターネット・アンケート(以下はIAと略す)による意見募集。市民が求める職員像をIAで募集。救急医療や小児救急についてIAによる意向調査。住宅建設等指導要綱の条例化についてのIA。私立中央図書館の基本構想でアンケートと市政モニター調査。

 

3、執行過程での参加。

 3−1 新しいタイプ

 広報紙の市民参加による作成。男女共同参画社会づくり支援講座をNPOに委託して実施、そのための企画公募。道路アドプト制度。不法屋外広告物追放推進員制度。「市民ごみ減量意識調査・組成分析調査。生ゴミ堆肥化事業。

 住民のワークショップでの意見を生かした基本設計で市民センター建設。公民館での利用者による活動委員会設置、運営。清掃工場建設に対する「公害防止協定締結」と「公害監視委員会」の設置。「土曜日午後の健全育成」について、校区運営委員会と全市的な推進協議会の設置と運営。

 

 3−2 伝統的な地域団体等のタイプ

 「自治会・校区コミュニティ協議会・コミュニティ連絡協議会」。「生活安全推進協議会」。「校区自主防災会」。「健康リーダー」の設置と運営。「明るい選挙推進協議会」。

 

4、市民参加の基盤づくりと支援。

「A地区まちづくり協議会」を景観市民団体として認定。「建築協定まちづくり活動」支援とその「連絡協議会」事務局。

 

5、この他に「パブリック・コメント」が行われている。

 

なお、この調査に「該当なし」と回答している部署は、回答した38部署中9つあった。

 

 この調査から以下の点を読み取ることができる。

1、アンケートや意識調査による意向やニーズ調査。

2、計画の策定への審議会や委員会への参加。特に公募市民等。意思決定や政策策定への参加。

3、執行過程での参加はおおむね二つある。

 (1)NPOなどの市民団体に委任したり、委託したりし、それも公募などによるもの。

 (2)自治会・町内会への事業の委託など。

4、市民参加の基盤作りに属するもの。

 

 以上の状況をもう一度整理すると、市民参加の段階としては

(1)施策の形成段階(市民提案制度、プランの公募など)。

(2)審議、討議する場への参加。

(3)決定への参加。

(4)執行過程での参加、実行過程の担い手。

(5)結果の評価への参加。

という段階にわけることもできよう。地方自治体の現場では、「執行過程での住民参加」が事実上はかなりの大きさを占めているようである。「従来からのタイプ」の外に、「新しいタイプ」もあるが、財政面での効率化から推進される要素が強いために、NPOや市民団体の活動や存在をスポイルし兼ねないのが気がかりである。

 

「協働(ガバナンス)時代の市民参加」の構造

以上の検討を通じて「協働(ガバナンス)時代の市民参加」の特徴を整理すれば、第一図のようになろう。

 

 

 この図を注釈すると、第一に、参加や協働の前提として「情報の公開」が基本になるということである。このことは、山口定氏の『市民社会論』(有斐閣、2004年)において、新しい「公共性」の第一の基準として指摘されている点である(同書281頁)。市民参加や協働によって「新しい公共空間」を創出する場合の基礎はこの「公開性」にある。したがって、この「公共性」基準としての「公開性」は、「文書情報の公開」を初めとして、会議、委員会の公開(詳細な発言者つきの議事録の迅速な公開、リアルタイムな映像による公開も含む)、執行過程の諸手続きの公開とそれへの意義申し立てを含むアクセスの保障、政策評価の過程と結果の公開、その市民的評価システムでの公開などを含む広範囲なものである。

 第二には、市民参加の新しい段階として重要な側面は、図の右半分にある。すなわち「住民・市民」が「自発的に」公共的活動をつくることが第一に必要なことなのである。この基礎がどの程度の水準に達しているかによって、その統治団体の参加の水準は規定されることになる。これが、「アソシエーティブ・デモクラシー」の形成にとって最も基本的な点である。新しい市民参加論は、旧来のコミュニティ組織もそこに自発性とミッション性を構築することによってアソシエーショナルな市民組織(山口が言う選択的共同体に近い)として再構成されることを展望し包括するものであることが望まれる。

 新しい民主主義としての「アソシエーティブ・デモクラシー」あるいは「結社民主主義」とは、最近ではイギリス労働党左派に位置するP・Q・ハーストや、別系統からのアメリカのジョン・ホプキンス大学のレスター・M・サラモン、そしてやや遡って丸山真男の主張、また山口定氏等のネオコーポラティズム、平田清明によるグラムシ理論の展開、といった5つの流れがあるとする(前掲の山口『市民社会論』第8章参照)。いずれにしても、新しい市民社会の形成は、この自発的で自己実現を志向する市民による「アソシエーティブ・デモクラシー」という新しい民主主義の自立的な形成というかたちで展望される。

 そして第三には、行政とアソシエーションとして自らを組織した市民とが、協議し協働決定し、協働で執行するという仕組みの形成である。

 しかし、現状はこのような自発的な公共的市民活動はまだ幼弱である。1998年の特定非営利活動法人法の成立によって、05年の5月末には約25,000のNPO法人が認証されているが、これが10倍になれば少しはわが「私民社会」は変容をきたすのではないか。

 そのために、第三に、「市民公益活動支援」が必要となる。これに関連して、公的資金をよびみずにしながら、広く個人や企業など市民の寄付を集め、分厚な「コミュニティ・ファンド」を形成することもアソシエーショナルな市民社会の基盤整備として不可欠である。

 

市民参加の再構築のための制度形成

 以上に述べてきたように、現在の「市民参加」は、一部の自治体において、また自治体の一部(たとえば都市計画部局、福祉部局、環境政策部局など)においてかなり面白い取り組みが行われ、相互に学ぶことも多い。しかし、分権の流れの中で、その流れを市民主体の地域社会に展開する方向性は強いとはいえない。また、ニュー・パブリック・マネージメントという行政活動への企業の活動原理と組織原理を導入する政策は、ともすれば、「参加」をなおざりにした「効率化」にかたよる傾向にある。一方で「協働」の言説は、言説にとどまらずに地方自治体のあらゆる領域で見ることができるようになってきている。

 このような事情を考慮にいれながら、包括的地方自治改革をさらに市民社会の形成に向けて推進することが求められている。具体的には市民社会の形成には、市民参加を実のあるものにすることが不可欠だが、そのためには、第二図のような制度整備が求められる。(松下啓一『協働社会をつくる条例』ぎょうせい、2004年、なども参照されたい)。

 

第二図、包括的地方自治改革と市民参加の再構築

  (村松、稲継『包括的地方自治ガバナンス改革』に加筆・修正)

 

 

 第二図の左にある「包括的地方自治改革の4つの軸」の矢印と、右側にある、制度整備の各項、すまわち「自治基本条例」「市民参加推進条例」「市民活動支援条例」「ボランティア・NPOとのあり方指針」などとは、対応しているものではないことはお断りをしておかねばならない。ここでは現在の時点で考えられる制度整備として、次の4つをあげている。

一、「自治基本条例」の制定。これはいわば自治体の「憲法」としての役割を期待されているものだが、既に制定し、あるいはその制定に取り組んでいる自治体の取り組みはそれぞれの特色を生かしたものとなっている。それぞれ自治基本法などがないところでは自治体が自ら決定すべきことだから、様々で良い。ただし、「最高法規性」は条例に謳い上げるのはよいが、体外的に他の条例を法規範として拘束することは難しいであろう。あくまで内部規範として尊重義務を掲げることにとどまると思われる。しかしそのことは極めて重要なのである。特にその都市が、どのような「価値」や「理念」を実現しようとするかを市民との協議と合意の上で表明し、規定することは市民生活にとって重要な意味を持つ。

二、「市民参加推進条例」。これには、「箕面市市民参加条例」のように、「協働」をも参加の形態の一つとして位置付けておく必要がある。このような市民参加条例を制定し、運用する中から、「自治基本条例」を制定する方向が出てくることも考えられる。一般に、これらの制度整備は、体系的に進むわけではない。それそれの自治体の都合によって、条件の煮詰まり方が異なるから、整備の順番も異なってくることは自然である。

 この「市民参加推進条例」中には、行政の各部、または各課ごとの「市民参加推進計画」の策定(いわばマニュフェスト)と、その進行管理を担う、市民委員を中心とした「市民参加評価会議」(京都市のようにフォーラムと名乗っている場合もある)が設けられるコTが必要である。

三、「市民活動支援条例」。条例にするかどうかは別にして、最近の事例では「千代田区街づくり公社」の「まちづくりサポート」事業が面白い。NPOなど「街づくり」市民団体を公募し、公開審査で助成するもの。そのファンドは、賛助会員としての企業の賛助金が大きく、柔軟性に富んでいる。日本では、市民活動を支援し、支える「寄付の文化」の根が浅い。しかし、市民が自立して市民として活動するためには、租税を投じた補助金や助成金のほかに、企業や個人の寄付や負担金による「コミュニティ・ファンド」の形成を図らなければならない。

四、これに先ほどから述べているような「ボランティア・NPOとの協働に関する指針」というかたちでの指針やその条例化が求められる。この「指針」は、行政と共に市民をも拘束する、いわば契約に近いルールとして確立することが必要である。その原則は、第一に「対等」である。第二は、ミッションの尊重。第三には期間限定。第四には公開、などである。さらに、原案の立案段階からの相談や、意見やプランの募集であり、事業評価への市民参加である。

 

おわりに

 以上に見てきたように、協働の時代とともに「市民参加」は新しい段階に入っている。一方では、「市民参加」が手垢に汚れ、陳腐化した現実が自治体の現場にある。このギャップを放置すると、「協働」は「市民活動」を新たな行政の下請けとして組み込み、その無責任体制を再生産することも強く危惧されるところだ。しかし、「協働」について、真面目に悩み、市民主体の「地域福祉計画」の策定で揺れ動いているのも、各市町村や府県の現場である。

 これから問われているのは、政治的意思決定や政策の決定への市民参加をより実効性のあるものとすることである。それとともに、多様に展開されている「協働」というかたちでの「直接執行」過程での「市民参加」を通じて、「新しい公共性」の創造に向けた経験を積む必要がある。それは試行錯誤の連続であるが、その繰り返しの経験によって行政と市民との新しい関係が見えてくると思われる。つまり期待されるのは、このようにして導かれる公務員の意識改革と、行政依存を脱却した自立した市民との新しい関係の構築である。前述したように「市民参加」は市民にとっても、行政職員にとっても、依然として先の読めないプロセスであることには変わりがない。しかし、そこにこそ豊かな、これからの市民社会の内実が形成されることにもなる。行政という権力とその市民化、市民の公共的市民への展開という両面で、新しい市民社会とそこにおける公共性の性格が見えてくることを展望したい。

 

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